【にちにちこれ、好日】
「選ばない消費」の時代だからこそ、大事にすること。
みなさんこんにちは。
陽光が年々眩しく感じる、33の歳の夏。
家族や友達とアクティビティを楽しみ、
経験値を蓄えながら日々の営みを勤しむことは、
私にとって充足たるものだと思っています。
例えば娘たちが大好きなキックボードで、
公園を走るみずみずしい姿を眺めること。
例えば夫とジムのあと腹ペコ状態で、
食べ物をリサーチして味わうこと。
例えば友だちと趣味や仕事への愛を
忖度なく語りあうこと。
大好きな人たちと、
ゆったりすごすこの時間が、
最近のわたしにとって変え難いご褒美です。
やっぱり肉体をもって生で会話する人たちに、
勝るものはないと日々感じています。
さて、最近は様々なジャンルの
ファッション化が進んでいます。
ファッションと聞くと服が先行しますが、
実際には「流行」を意味します。
流行はどんなジャンルのモノにも存在していて、
服飾、暮らし、食事、音楽、読み物...。
ライフスタイルの彩りに関わるものには全てあって、
それは然るべきものだと思っています。
ただ、そこで恐ろしいなと思うのは、
モノが形骸化されて溢れている状態を
見かけた時です。
モノを所有するには相応の「好き」があるものだと
思っていたのですが、そうじゃない事もある。
「あなた自身は?何が好きなの?」
と、それが見えないシチュエーションがあるのです。
今、いろんなメディア媒体や発信者が増えて、
まくしたてるようにたくさんのモノや行為が
紹介されています。
その中にはまるで共感に寄り添う振る舞いで、
その実、アフィリエイトだったりするものもある。
でも消費者はそれでも憧れだ、推しだとお金を落とす。
「あなたのためにコレを買いました」
「あなたが持っているから真似しました」
これが悪いことでは全くないのですが、
買われた「モノ」への興味はあったの?
と聞きたくなります。
モノがそこに有ることの意味が
空っぽに見えてしまうのです。
これが形骸化。
スマホ社会の今、
起きた瞬間から情報が配信され、
小さな意思決定が繰り返される日々を過ごす。
疲れた消費者が、自分でモノを選ぶことを省略し始め、
その結果が人の思惑に委ねた消費行動に
繋がっているとしたら......。
自分の興味にアプローチせず手に入れたモノに、
どこまで愛着を持てるのだろう?
と考えたりしちゃいます。
それでもこの成熟した消費社会は回ってるし、
多様な考え方のひとつということで......。
この話は受け流してもらえると幸いです。
冒頭のお話に戻りますが、
人と過ごすアクティビティの時間は、
「選ばない消費」が活きると思っています。
特に子どもたちに関しては、何かが起こるわけでも、
何かが達成されるでもない時間でも、
この「不要かもしれない」が心の幅になっていると
信じたいから。
「選ばない消費」の環境を楽しみながらも、
「自身で選ぶ行為」は忘れず持っておきたい。
結局のところ子供たちも、
自分の好きな物事は自分で選び取ってくれたら、
万事OKということです。