【にちにちこれ、好日】
心にしたがって、食べること
みなさんこんにちは。
9月も終わりに近づきましたね。
小さくなった蝉の声にコオロギの声が交じり、
朝夕は爽やかな秋の風を感じるこの頃。
気候が過ごしやすくなるにつれ、
腹の虫も元気になります。
わたしは食べることが好きです。
どのくらいなのかというと、
常に「何を食べたいか」と己に問いかけては、
答えが出るまで考え込んでしまう程度には好き。
私の中での「腹が減る」ということは、
"胃"と"心"が減っている状態だと思っています。
胃は肉体的なもので、心は精神的なもの。
人間たる私たちは、
この"胃"への満足と"心"への満足は、
必ずしも一致しないものだと日々痛感しています。
毎度の例え話になりますが、
娘たちの食への振る舞いをみていると、
その現象は如実に現れているように感じるのです......。
お腹が減ったという娘たちに、
ある日は私の一存で決めた滋味深〜い和食、
ある日は娘たちの要望に答えたオムライス、
それぞれを夕飯にだしました。
するとどうでしょう。
どちらも完食こそすれ、
私が丹精込めた滋味和食を食べている時、
すでに食後のおやつを求めはじめるのです。
おかわりもしているのに、なぜ?
彼女たちにお腹いっぱいやろ? と言っても
「いや。おやつ食べたい」の一辺倒で、暖簾に腕押し。
でも見ててわかります。気分は乗ってません。
食事中、美味しくなさそうに食べているし......。
本当に美味しくないなら立つ瀬がないけども、
そこは夫のお墨付きもあるので信じるとして。
大人以上に子どもは心に従順で、
食においては胃の状態なんかよりも、
心の満足度でその終わりを判断している。
そう思った時に、
ちょっと行き過ぎではあるけれど、
わたしもたいして彼女たちと考え方は
変わらないんじゃないかと気づきました。
常に何を食べたいか? と考えている自分は、
すでに候補を選び出しているし、
そこからあぶれたものは、
わざわざ作らないし、買わない。
「この肉嫌いだ、この野菜嫌いだ」
と言う子どもたちに、この杓子定規め!
って思っている私の料理には、
絶対に「私が好きな」という基準が入ってるわけです。
ブーメラン効果とはこのことでしょうか。
そう思うと、食事中におやつを
求めてくる娘たちへの猛烈な怒りも、
少しは鎮まらせねばいけないかもしれません。
そういうことで、
子どもたちの食事への姿勢を通して見た結果、
わたしにとって食事とは、自分の心に従って
全うしたい行為なのだと気づいたわけです。
改めて、わたしは食べることが好きです。
しかし行為自体は場当たり的なもので、
食べたいものを作ったり買ったり......。
正直、生活・健康の整えとしては、
程遠いものかもしれません。
ただ、そんな毎度ズボラな食事でも
素直な心で向き合っている時間はわりに有意義で、
ゆる〜く晩酌しながら、
それなりの幸福を得ているのです。
味覚の秋はもうすぐ。
次は何を食べようかな??