【にちにちこれ、好日】わたしの日々の小さな後悔
みなさんこんにちは。
梅雨も始まり、
窓から夜風と共に蛙の声が聞こえる6月。
近くの公園で、青葉と大きな池を見つめて、
涼をとる楽しみも出てきました。
わたしはといえば、
2月から職業訓練に通い続けています。
こんなひたすらに学業に勤しむことも久しく、
複雑なプログラミング言語相手に、
頭から煙を出しながら勉強する日々です。
そうして疲れてしまった時、
わたしはスマホに取り憑かれてしまいます。
疲れている時こそ、
何もしないで過ごせばよいのに。
と、元気な時は我が振りを鑑みるものの、
疲れてボーとしていると、
目と手が勝手にスマホに吸い寄せられます。
そして、大好きなソファの上でお決まりの
"お寛ぎフォーム"が生まれてしまうのです。
その時のわたしは、
「どうでもいい情報に己を埋没させている」
という自覚がありつつも、どこかで
「わたしを満たしてくれるものはないか?」
となにかを探し彷徨っている状態です。
そのまま夜が更けていく。
最終的にスマホを顔に落とし、
「痛い...はっ!寝てた!」
と、我に帰って寝床に就く。
そんな日がざらにあります。
結局、満たされたな〜という実感はなく、
ほんとに欲しいのは何だったのだろうか?
と小さな後悔を抱いて眠るのです。
半年ほど前に読んだあるコラムで、
感銘を受けた一文を思い出しました。
「情報」と「知識」の違いは、
「伝達速度の価値に左右されるもの」で、
決してひとくくりに考えるものではない。
即時的で消費物にすぎない「情報」を
たくさん仕入れていることを、
継続的に行動して身につけていく「知識」
として扱っちゃいけない、というものです。
今勉強していることも座学の後に、
演習→調べる→演習→...の繰り返しで
身につけていくわけだし(習得度はさておき)。
わたしは情報のスピード至上主義にあやかって、
「情報を見る」作業に追われている
だけかもしれない。
でもその情報、
疲れてるわたしに今必要かと言われれば、
大半はそうじゃない。
そこに気持ちも行動も伴わないなら、
全然必要ないじゃないか!と思ったのです。
翌朝、起きて植物たちに水をやる。
家族と朝ごはんを食べて家事をしているうち、
支度を終えたみんなを見送る。
今日は週に一度の1人きりの休み。
わたしよ、今日は何がしたいんだっけ?
と自分の心に耳を傾けて、携帯を触る前に
動き出してみてもいいのかも。
新しいマインドを持つことで、
新しい生活を作るというのも
また一興なのかもしれません。