【まるく、暮らす。】
自分のために買った花が教えてくれたこと
京都でひとり暮らしをしていた頃。
休日は薄暗くなり始める時間帯に
スーパーに向かうのが日課で、
歩きながら色んな家の
灯りを眺めるのが好きでした。
(今でもよく、夕暮れの中を散歩します。)
キッチンで料理をつくる音や、ご飯の匂い、
まだ遊び足りない子供たち、野良猫。
「あ~いい匂い、煮魚食べたくなってきた。」
「あ、この猫、この間もいたな...。」
なんてことを思いながら、歩きます。
すると、ひとりきりの暮らしから、
ぐっと視野が広がる感じがして、
すぐそこに感じられる日常に
なんだかホッとするのでした。
今思うと、今を生きている自分以外の
誰かの気配を感じて、安心して
いたのかもしれません。
そんなことを考えていると、
家族や大切な人が頭に浮かぶのは
よくあることでした。
行きつけのスーパーに到着し
目的の食材を目指して店内を回っていると、
ふと目に留まったのは、農家をしている実家で
育てていたお花でした。
「あ、これ~。」と懐かしく思うのも束の間、
値段を見て「わ、こんなにするんだ。」と
躊躇しました。
実は、誰かに贈り物をするタイミングでしか
お花を買ったことが無かった私。
自分にお花を買う、ということへのハードルが
とても高かったんです。
とはいうものの、最近お部屋に
変わり映えがないし...
Instagramの憧れのあの人も、
お花を取り入れて楽しんでるみたいだし...
挑戦してみるのもありかなあ...
と店内を回りながらぐるぐると考えます。
夕暮れ時のセンチメンタルな気持ちも
そっと背中を後押しして、思い切って
2輪買ってみることにしました。
(当時、2輪買ったのはこのラナンキュラスでした。)
初めて、自分のために買ったお花。
懐かしさを感じる、お花。
帰宅してドライフラワーを
飾っていた花瓶をあけ
買ってきたお花をいけてみます。
うん、なかなかいい感じ。
狭い7.5畳の部屋の空気が
ふっと軽くなったような気がしました。
と同時に、小さなあたたかさも。
ちょっと大袈裟かもしれませんが、
自分以外の「生きている」ものの存在が、
思いのほか、自分の気持ちを
あたためてくれたようでした。
そんな気持ちになりながら
両親がつくっているお花は、
人々にこんな豊かさを届けているんだ。
と、ハッと気づいたのです。
日々、汗水を垂らして泥だらけになりながら
自然と向き合う大変さを近くで見てきたからこそ、
なぜ農家なんだろうと、思っていた若き日の私。
この体験を経てようやく、
両親がつくっているものへの
尊敬の思いが溢れてきたのでした。
それ以来、私は時々自分のためにお花を買います。
地元に帰ってきた今、あの頃のような
懐かしさ、寂しさを感じることはありませんが、
何か変化が欲しいとき、気持ちを上げたいとき。
その生き生きとした生命力とあたたかさに
助けられる瞬間は、たくさんあります。
お正月。久しぶりに実家の
ビニールハウスに入ってみました。
冬場、じんわりと温かいハウスの中で
凛とした花がたくましく育っています。
(勿忘草(わすれなぐさ)名前も可愛くて好きです。)
お花に全く興味がなく、
何を聞いても二つ返事だった昔と比べると、
私も随分と興味を持つようになりました。
その変化をきっと両親は感じていて、
実家に帰るたびに、嬉しそうに
作っている花の話をしてくれます。
あの時、自分のために買った花がきっかけで、
暮らしの楽しみが増え、両親や花づくりへの
理解も深まったんだよなあ、と。
ハウスに咲く花を見て、
そんなことを思い出しました。
(思い出のラナンキュラス。黄色もあるんです。)
このお花たちが、誰かの日常に届き、
あたかさや喜びを生む。
そんな仕事をしている
両親のことを誇りに思うと同時に、
私自身もインテリアを通して
そんな気持ちになれるような
こと、ものを届けていくぞ、と
気持ちがきゅっと引き締まりました。